ものかき夢想

ひたすらものかき

【SS】とある喫茶店でのお話

 1650年、イギリス・オックスフォード。デカルトが死んだこの年に"コーヒー・ハウス"が誕生した。コーヒー片手に新聞を読み、政治を語らう交流の場として、主に男性に好まれた。喫茶店の始まりである。

 日本に本格的な喫茶店が誕生したのは1888年のことらしい。"可否茶館"というそうだ。日本初の喫茶店だけあって、私もその味を堪能してみたかったのだが、どうやら今は跡地が残るだけだそうだ。あと120年程はやく生まれていれば堪能出来たと思うと、なんだか言いようのない悲壮感とやるせなさに包まれた。

 

 

 その日、私は髪を切った。梅雨の合間に太陽が顔を覗かせ、私を外へと連れ出したのだ。薄手の長袖に着替え、美容室へ自転車を走らせる。待ち時間が思いの外長く、切り終わった頃には太陽が少し傾き始めていた。ヘトヘトだ。太陽もお勤めご苦労さん、あと少しでお休みだ。

 美容室を出ると、不意に喫茶店を見つけた。道路を挟んだ向かい側に佇むそれは、どこか堂々とした風格を見せている。慣れ親しんでいる町のはずなのに、今までまったく気が付かなかった。先ほどの疲れも相まって、砂糖を前にした蟻の様に、吸い寄せられるように扉を開けた。

 

 「いらっしゃーい。席、どこでも空いてるから好きなとこ座って頂戴」

 

 店に入るなり、気さくな婦人店員が声をかける。50代程だろうか。どこでも、と言われてしまうとかえって悩んでしまう。とりあえず一番近くのカウンター席を陣取る。

 

 「メニューこちらです、どうぞ」

 

 程なく、今度は若いウェイトレスがメニューと水と女子独特のにおいを運んでやってきた。名札を見ると「たなか」と書いてあった。タナカさんというらしい。水分を摂り、メニューを開く。アメリカンコーヒー、ウインナコーヒー、エスプレッソにカフェラテ。いつも思うのだが、ブルーマウンテンコーヒーは何故他よりも少し高いのだろうか。豆が高級だからか。気になる。

 初めて入る喫茶店では決めていることがある。その店の"オリジナルブレンド"を注文するのだ。"オリジナルブレンド"はどこの喫茶店にもあるし、その店のいわば看板メニューだ。この味が良ければ私にとって良い店だし、悪ければ私に合わない店、となる。実に簡単明瞭だが、これが実に効果的である。田中さんを呼び、オリジナルブレンドを注文した。

 

 コーヒーがくるまでの間、店内を見回す。内装は、堂々とした店内に負けじと胸を張っている。壁には木彫りの絵が飾られており_2人の男女が机を囲んでコーヒーを飲んでいる_、静かなBGMと控えめな観葉植物が私の心を落ち着かせてくれる。キッチンの中には業務用コーヒーミルやサイフォン、食器を洗うための洗浄機も置かれている。私の目の前には大きな食パンがビニールに包まれていた。やはり喫茶店だからサンドウィッチも売れるのだろう。たまごサンドも注文すべきだったか。

 と、キッチンの中に年老いた男性が立っているのに気付いた。ずっと見ていたのに全く気付かなかった。控えめな老人は見た目によらずテキパキと食パンに命を吹き込む。お前はツナサンド、お前はハムサンドな。あぁそんなに押し合うな。みんな美味しく作ってやるからな。そんな声が聞こえてきそうだ。私も年老いたら彼のようになりたい。

 

 4つ目のサンドウィッチを作り終える頃、先ほどのタナカさんがオリジナルブレンドだけを運んできた。コーヒーを置く姿はどこかぎこちなく、まだまだ新米を匂わせる。注文票を置いてそそくさと立ち去っていった。ウェイトレスも楽ではないらしい。

 置かれたコーヒーカップをまじまじと見てみる。縁には綺麗な金色のラインが入っていて、どこか気品を感じさせる。コーヒーの深い闇が私の意識を吸い込んでいく。妖艶な香りに心酔した私は、何かに誘われるように闇を口にする。強い酸味の後に仄かな苦味が追ってくる。悪くないが、少し酸味が強すぎる。砂糖の瓶はテーブルに置いてあった。1杯掬う。家で使ってる砂糖より粒が少し大きい。小さなブラックホールはその白い粒を音もなく吸い込んでいった。スプーンでかき混ぜると、底の方でザラザラとした感触があったが、それもすぐになくなった。ブラックホール、恐るべし。

 再びそれを口にすると、わずかに変化があった。きつい酸味がなくなり、甘みが生まれた。地獄に堕ちた天使のように、安らぎを与えてくれる。果たして堕天使が安らぎを与えてくれるのかどうかはさておき、だいぶ飲みやすい味になった。本当に良いコーヒーはブラックでもすっきり飲めるというが、生憎私はそのようなコーヒーにはまだ出会ったことがない。しかし、ブラックであろうとなかろうと、美味しいコーヒーは私の中では良いコーヒーだ。

 

 そういえば。世界で初めてコーヒーを飲んだ人はどんな気持ちだったのだろう。当然ブラックだし、今よりも抽出技術は発達していない。そんなコーヒーは一体どのような味だったのだろうか。ヨーロッパでは貴族の嗜みとして飲まれていたと聞いたことがある。その時点でだいぶ味が整っていたのだろうか。いや、貴族にも意地があって、苦くても飲み干すのがステータスと思っていたのかもしれない。そうだとすると、なんだか貴族がかわいく思えてきた。コーヒー豆自体は数千年前から栽培されていたが、では喫茶店はいつ頃誕生したのだろうか。同じように数千年前だろうか。古代エジプトの時代より代々受け継がれているコーヒーの味、というものがあるのだろうか。あるとしたら、少し興味がある。帰ったら調べてみよう。

 

 コーヒーを飲みながらしばらく物思いに耽っていたら、まばらだった客が誰もいなくなり、いつの間にか私だけになっていた。コーヒーもちょうどなくなった頃なので、会計を済ませる。レジに立つのはやはりタナカさん。今度はテキパキとレジスターを打つ。420円。あの魅惑的な空間の割には良い買い物をした。

 

 

 外を出ると、先ほどとは違う現実味を帯びた湿った空気が私を迎え入れた。あの夢の様な魅惑の地獄がここにはない。私は側に停めていた自転車に跨り、古代のコーヒーに思いを馳せ、先ほどの余韻に浸った。太陽は休まず働いていた。